リレー小説(現在無題) 何故だろう。 今日の森は、やけに騒がしい。 何故だろう。 今日は、やけに胸騒ぎがする。 さっき、侵入者を退治したから? いや、こんな事は、珍しい事ではない。ナイフの軌道も、いつも通り、完璧だったのに。 マリアの足が、自然に速くなっていた。それに気付いたのは、本人ではなく、カトブレパスの方だった。 「フゴォ…」 「ああ、ごめんねカトブレパス。少し速すぎたみたいね」 切なそうな愛猪の声に、ふっと、我に返ったマリア。しかし差し出したその掌には、ほんの少しではあるが、汗が滲んでいた。 不意に、視界が開けた。 そこは、この深い森の中で、唯一木々が生えない場所。植物を寄せ付けない場所である。 家が一軒入る程度の空間に、不完全な月の光が差し込み、中央の一枚岩を青白く照らしていた。 「!?」 この森を知り尽くしたマリアは、すぐに異変に気付いた。カトブレパスもまた、本能がそれを感じ取ったようだ。 「月が…急ごう!」 「グフゥ!」 言うが早いか、 (胸騒ぎの正体は、これね…!) あの場所は、老い木が傾いて生えているせいで、この時期、この時間には月の光は差し込まない場所なのである。 (時間か、空間か…。どちらかが、狂わされている。) もう少しで、森を抜け、館に戻ってくる。 (あの時も、こんな…。いえ、こんな事があって、あの方は…) 二つの影は、草を薙ぎ、静寂を切り裂いて、走り、跳ぶ。 何のためであろうか? 何のために、それほどまでに急ぐのか? 辿り着いた。 館には、外から見て分かるような異常は特にない。 しかし、館を包む不穏な空気はすぐに感じ取れた。 「マスター!」 静かなホールに、マリアの声が響き渡る。程なくして、片目の執事が階段を下りてきた。 「マリア、散歩はもうお終いかい?」 その声は普段と変わらず、穏やかで、気品に溢れたものだった。 「マスター。月が…」 「分かっているよ。位置がおかしくなったのだろう?」 マリアが言い終わる前に、執事はその内容を言い当てた。 「懐かしいな…あの時もこんな、歪な月が狂った位置に昇っていて…。そうそう、『出来損ないの』月ではあまりに可哀想なのでね。ずっと言葉を探していたんだよ。『歪な』月…、どうだい、これならしっくり来るだろう」 「はい、言い得て妙、これほどに似つかわしい言葉もありません」 執事の落ち着きぶりに、マリアの動揺も消え、普段の様子が戻ってきた。 「そうだ、マリア。君はそうでなくてはいけないよ。子供のような無邪気さと、大人びた落ち着き、それらを兼ね備えているからこそ、君は君として生かされる」 「はい」 「カトブレパスの足を洗っておくれ。泥のついた足では絨毯が汚れてしまう」 普段ならそれは、マリアがカトブレパスを散歩に連れ出した際の日課であった。 「申し訳ありません。急いでいたものですから。今すぐに」 「それが済んだら、ワインとグラスの用意を」 その言葉が何を意味するか、一瞬の間の後に、マリアは理解した。 「グラスは…」 「そう。三つ用意してくれ」 カトブレパスの足を洗いながら、月を見上げる。 普段と違う角度から差す月光は、館にも普段と違う陰影をつけていた。それはこの建物の彫りの深さを強調し、上品で歴史を持った城の裏に潜む無骨さを示すような、物々しい影と見えた。 「今夜は…宴が行われるわ。久しぶりよね、こんな日は。カトブレパス、あなたも楽しみ?」 「フゴッ」 「ふふ。あなたも、マスターも、楽しい夜が過ごせそうね…。でもね、私には、とても切なくて、悲しい夜に思えるのよ」 愁いの差したマリアの頬を、カトブレパスの鼻がくすぐった。しかし、マリアがいつもの表情を取り戻すには、少々時間が必要だった。 「さ、早く行かなくちゃ。準備が遅れたら、あなたたちの宴も台無しだものね」 地下のワインセラー。館の大きさに比例して、流石に大きな部屋である。いかにも高価そうな年代物のワインが所狭しと並び、中には樽に入れられ、更なる熟成を待たれているものもある。 重い扉を開けてここに入ったマリアは、迷うことなく一番奥の棚に向かった。 ほこりを被り、蜘蛛の巣の張り付いた古い木の棚である。マリアが手を差し入れると、ギシリという、今にも崩れそうな音を立てて返事をした。 その中から、一本のワインが取り出された。ビンもほこりを被って、真っ白である。 細い指が、そのラベルに積もったほこりを拭う。 「これね…」 ワインのラベルには、”das Blut von meinem Meister”と記されていた。彼女の表情は一層曇り、今にも泣き出しそうになる。 マリアはワインセラーを出て、扉を閉めた。「我が主の血」と称された、真っ赤なワイン written by 鉄海月 |